先週の社内ブログ記事を読んだ後、スタッフ内でいろいろと話しをしました。
ひとつ目は、日本が早い時期から「火」をかなり高度に使いこなしたと言うよりも、大陸から入ってきた文化に助けられたのではないかということ。紀元3世紀の弥生時代に金属器がもたらされたと言われているので、火を扱う技術も入ってきたのではないかと考えます。
(このあと、社内ブログ執筆者とも話をして私の捉え方が違うということで解決しました。)
ふたつ目は、土器を焼く温度、陶磁器、鉄の精製に必要な火の温度は何度?
3つ目は、当時の人々は火の温度をどうやって上げていたの?
連載記事を書いているせいか、考え方がSTEAM寄りの社内です。この内容でも記事が書けそうですね。
今、koedoでは特別展「古代メキシコ -マヤ、アステカ、テオティワカン」の記事を連載しています。記事を執筆するために帰宅すると色々な書籍に目を通すので、ちょっとした古代メソアメリカ文明オタクになりつつあります。
先日2度目の「古代メキシコ展」を訪れました。訪れるたびにほかの観覧者からの「生贄ばっかり」という声が聞こえてきます。「確かに人身供犠は多い、でも!」と言いたくなるのを押さえて、お目当ての展示品を見て回りました。
私は中学2年生で映画「インディ・ジョーンズ最後の聖戦」を観たとき、外国の映画なのに日本人も面白いと思うのはなぜだろう?と思いました。そしてリバー・フェニックスを見ながら、国籍や文化の違いはあれども、人間の基本的な感情は同じなのだということに気付きました。また、技術は日進月歩していくのに、人間の質はどうして変わらないのだろうとも考えていました。
今こうして書いていると中二病そのものでお恥ずかしい限りですが、技術は残るけれど、人はいずれ死んでしまいますし、知識や人格が形成されても活かせる時間が短いですね。
古代メキシコの人達が行っていたことは形式が違うだけで、私たちとあまり変わりがないように思えます。逆に、熱心に信仰していた古代メキシコ人の方が純粋で、敬意を払いたくなるほどです。
そこに生きていた人たちの息吹を感じられるから、私は歴史が好きなのかもしれません。
(担当:Chevalier)