答えのない問いは難しい?
日曜日に「身近な野草を知ろう」というワークショップがあり、植物大好きな娘が参加しました。
参加している年齢層は小学校低学年や、幼稚園の年長さんあたり。
ほぼ親子参加のイベントでした。
ワークショップは集合場所の公民館から、800メートルほど歩いて「ふれあいの森」として整備された公園へ移動。途中、道端の雑草や雑木林の植物をチェックしながら公園へ、そして神社裏の雑木林に入り植物をチェック。
(愛宕ふれあいの森 写真:Googleマップ)
植物の仲間の話や、花や実の話、香りの話、里山の人の暮らしや身近な野草を利用した遊びの話、神様の話などを織り交ぜながら、大人は大人なりに、子どもは子どもなりに楽しめるワークショップでした。
ところで、このワークショップのスタート時に主催者が子どもたちに、ある問題を投げかけました。
「今日は、何種類の植物を見つける事ができるでしょうか?」
もちろん、この時点で正解などありません。
きっとワークショップごとに正解は変わることでしょう。
「これは正解なんてありません。だから皆さん、適当な数字を予想して答えてくださいね」
この問いかけに娘の動きが止まりました。 間違えることが嫌な年頃です。
きっと「正解」が分からずに止まってしまったのでしょう。
とは言え、これはあまりにも「問い」が悪いと思ってしまいました。
現在の教育の中で「正解のない問いに応える力」は大きなテーマです。
しかしこれは「正解のない問い」ではありません。その時その時で正解が出てしまいます。
「正解のない問い」とは、出した答えが正解かどうか分からない問いであり、○かXかで判断しようのない問いを指しています。
当てずっぽうの回答で、たまたま当たっているか、外れているかを答えさせる問題ではありません。
ワークショップは非常に面白く、インストラクターさんの力も非常に優れていて楽しいイベントだったのですが、「正解のない問い」の難しさを感じたイベントでした。
「正しい答えを知っていることより、良質な問いを発する力が大事だ」と改めて思わせられました。