少し前に、身体が固くなっていることに気が付いた。
関節の可動領域が狭くなっているのだ。
身体は全部繋がっている。
だから意識的に、どこか一か所でよい、
柔軟性を保つように意識したら良いとアドバイスをもらった。
そこから意識的に柔軟体操をするようになった。

人は意識をしていなければどうしても「ラク」を選ぶ。
「ラク」を選ぶことが、必ずしも悪いこととは思わないけれども
それでもその「ラク」の選択を続けると、今まで出来たことが
できなくなっていく。
それは単純に関節の柔軟性が失われていくことで、
今まで手が届いていたものが届かなくなっているというだけに留まらない。
このエイジングとともに失われる人の柔軟性の喪失、身体の固さについて
この例そのものが「たとえ話」だと考えると、
これはきっと組織や社会についても言えることなのではないかと考えはじめた。
はじめはいろいろなことに挑戦をする。
失敗もするし、成功もする。
そのうち失敗を避け、成功の前例だけを踏襲していく。
それは身体の柔軟性を失い、ある一定の動きだけを繰り返していくことと同じで
関節の柔軟性を失う「ラク」を選択しつづける人のエイジングと一緒だ。
子どもの時は何にでも挑戦した。
木に登ってみたり、逆に高いところから飛び降りてみたり。
意味もなく走りたかったり、とにかく遠くへ行ってみたかったり。
それが年齢とともに、「ラク」を選択し、怪我をすることを恐れはじめ
怪我そのものが致命的になりかねなくなっていく。
挑戦は無くなり、分かっている「出来ること」だけを繰り返すようになり
柔軟性は失われ、身体が硬直していき、それが怪我の発生を助長して
挑戦そのものを失っていく。
子どもの頃に当たり前のように「遊び」の中でかけていた負荷は、
「遊び」の喪失とともに意識的な「負荷」に変えなければ
筋肉も、柔軟性も衰えていくのだ。
人も、組織も、社会も、一緒だ。
柔軟体操をするようになった。
肩こりがラクになり、仕事に向かう姿勢そのものが楽になったと感じる。
意識して山歩きもするようになった。
体操しながら、そして歩きながら考えている。
社会にとって、筋肉量を落とさない負荷とは、
柔軟性を失わない負荷とは、
なんだろうか、と。
(担当:Toy_Box)

